そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない
最近のかい十(3歳)の口癖は
なに?なんで?どうして?
なぜなぜ坊やである
これがもう凄まじいなぜなぜ攻撃を仕掛けてくる
信号ってなに?どうしてあるの?なにでできているの?
この建物はなにでできているの?
月の満ち欠けの話しになれば
なんで月はカタチがかわるの?どうやって?
虹を見た日には
なんで虹があるの?さっきは見えたのにどうして見えなくなったの?
女の子と男の子はなにが違う?
という具合に、100メートルも散歩をすれば何個も疑問が飛んでくるし
そんなこと聞く?!という疑問や
こちらがドキッとする様な本質を突く疑問が飛び交うと
何事も1つの答えしかないものなど無く
色々複雑に絡み合っていたり
角度を変えれば違う答えになったりするんだよなぁと心の中でしばしば思う
そうなるともう真面目に答えるのも投げやりになってきて
なんでかなぁ?どうしてかなぁ?どう思う?と聞き返すのが常である
こうゆう時、かい十の疑問へ端的に答えを出せるのは
伊坂幸太郎のいう「神様のレシピ」のようなもんじゃないかと思う
私ごときの脳でヒョイヒョイと出した答えはある一面でしか捉えられていないわけで
それが全てではないはずである
あまりにも人の言葉に素直になりすぎてはいけない
世の中の現象など移り行くものであり
神様でもない1人の人間が出す答えが全てになってはいけない
どんな時でも他に3つくらいは端的な選択肢があるものだよ
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、人間は神様じゃない
生きていく上では、それくらいの振れ幅を持ち自分で考えて決めれば良い
もし十年後のかい十が悩むことがあれば
そんな風に言ってやりたい