窒息死にあたいする写真と理想論
ワタシには姉がいる。
姉は時々ワタシにふと
写真撮らないの?と投げかける。
奇特にも姉はワタシの撮る写真が気に入っているらしい。
この記事のようなモヤモヤを姉にいちいちぶつけることもできず
ワタシは苦々しく笑いながら
しどろもどろに言い訳を並べる。
数年前、営業写真館で働かせてもらっていたことがある。
この会社に入社したのは、ワタシが写真を撮るのが好きで、それを仕事にしたいと思ったからだ。それと、会社説明会で流れた映像の音楽がQ;indiviという、その頃大好きだったアーティストの曲だったという不純な動機も含まれる。
ワタシが働いていた営業写真館では
お宮参りから七五三、入学卒業、成人式、婚礼、家族写真、・・・の記念となるものを残す。
衣装やヘアメイクにも力を入れているから、撮影の時は自分じゃない他の人になれる、さながら夢の国ディズニーランドである。
一生に一度のその日を祝う為に、いつもの冴えない自分からお姫様に大変身をする。
その一瞬を残すということは、精巧さを要する作業である。
衣服の乱れ、ライディング、立ち位置、ポージング、場の雰囲気作り、美しさや可愛さ、答えのない感性的なもの・・・
全てに気を配りながら、その一瞬をつかまえて写真に残す。
それを混雑したスタジオ内で時間に追われ
いかに効率良く数をこなすか考えているうちテンパり
インカムで飛び交う喧嘩腰のやり取りを無心で聞きながら
模範解答になりそうな無難な写真を撮ることに徹する。
謎の着ぐるみを泣きながら着る赤ちゃんに申し訳なくなったり
変身するのを拒絶したのであろうお姫様のぐちゃぐちゃの着物を必死に直しながら、この子の本当の可愛さはなんだろうと悩んだり。
そんな自分に焦燥し、空回りし
一度勢いのついた空転を止める術を見つけられず毎日耐え忍んでいた。
以前勝手にカメラブームに敗北し、立ち直れないでいるオンナで書いた様にカメラを手に取るのも億劫になっていたのは
実は、この写真館での経験も関係しているのかもしれない。
その頃のワタシは模範解答になる写真を求め、
模範解答らしき写真を大量生産していくのが精一杯だった。
そして
結局何が正解か全く検討つかずで仕事を離れてしまった。色々事情があったのだが結局3年も続けられなかった。
正直、ワタシは仕事のできない人間だったと確信している。
極度の緊張症と予想外のことにすぐ慌て
ボンミスもしてしまう注意力散漫なやつ。
長らく働いてきている人たちには使えない粗末なやつだったはずだ。
自然と入ってきたばかりのバイトの子が慕ってくれていた。
その子たちの気持ちが痛いほどわかるのだ。
その子たちのいない場所で、いかに彼らを教育するか建設的な議論が繰り広げられていたが
ワタシはその議論自体が自分に向けられた刃物の様に感じられ、一言も言葉を発することが出来なかった。
喉にお餅でも詰まってしまったかのように息苦しい時間だった。
それでも、写真は好きだった。
そして いま ふたたび写真をとる。
いまの写真は何にも束縛されない。
ワタシの感覚 そのまま。
誰かに喜んで貰える写真よりも自分が喜びを感じる写真が撮れる。
あの仕事をさせてもらっている時にも、
今と同じ感覚でいられる様に努力すれば良かったのかと今更ながら気づく。
しかし、ワタシはいまを楽しんでいる。
やはり写真を撮ることは楽しいものである。
そしてワタシにとって
誰かに気に入られるように取り繕って撮る模範解答的写真を大量に生産することは窒息死にあたいする。
まずは自分を喜ばせる。
じぶん、だいじ。
理想論だとも思うが
じぶんだいじにしてなんぼ。
そう思う。